今日生業から帰宅して、いつものように居間のパソコンに向かっていると、隣の部屋から子供が宿題の音読をやっている声が聞こえてきた。
いつもならなんとなく聞き流すのだが、金子みすゞの詩だったので、思わず聞き入ってしまう。
わたしと小鳥とすずと
わたしが両手をひろげても
お空はちっともとべないが
とべる小鳥はわたしのように
地面(じべた)をはやくは走れない
わたしがからだをゆすっても
きれいな音はでないけど
あの鳴るすずはわたしのように
たくさんのうたは知らないよ
すずと、小鳥と、それからわたし
みんなちがって、みんないい
あらためて聞いたが、ガツンときてしまった。
みんなちがって、みんないいではないか。
ひとはどうしても「かくあるべき」「こうでないと」という考えになりがちである。
むろん法に反することや、ひととして間違ったことについては、あたりまえだが「かくあるべき」でなくてはならない。
しかしどうでもいいことにまで、「かくあるべき」「こうでないと」「わたしがいちばん」と思うひとが本当に多い。
私の生きるスタンスの基本は、自分に降りかかる問題以外はどうでもいいということがある。
無責任なようだし、本当はどうでもよくはないのだが、諸事用により生業のみならず、子供の学校のことや日常の食事、実家にいる高齢の親族絡みの用事などにも多くの時間を使わざるをえないため、現実的に考える余裕がない。
そこに趣味であるテンカラ関連のことが入ってくるので、自分に降りかかってくる問題以外、考えたり処理したりすることを意図的に止めているのだ。
自分自身の脳内キャパシティが小さいこともあるため、その辺の力は純粋に楽しめ、ストレスを解消する入渓時のためにとってあるということもある。
金子みすゞの誌に絡めて、私が趣味としているテンカラを引き合いに出すのも畏れ多いのだが、今期開幕時の魚が上の写真のイワナである。
結局今期一番いいサイズの魚はこの解禁一発目の魚であった。
で、この写真のヤマメが、今期最後の魚となった。
大物狙いのひとや数釣りを求めているひとには理解しがたいと思うが、私にとってどちらの魚も釣れた時の感動は同じなのである。
キレイ・カワイイ・スゴイ・ケナゲ・ツヨイ・イタイケ・オオキイ・チイサイ・・・・・・感動は自分の心の中に起こるものなので、他人がどうのこうのいうものではない。
これは釣りそのものにもいえることで、「なになにだからかくあるべし」「こんなつりをやっているやつはなんとかだ」などというべきではない。
モラルや規則に反していなければ、自由にやればよいではないか。
釣りのことではないが、もちろん私とて若い頃は、見栄をはって恰好をつけていたこともある。
しかし年を重ね、結婚や離婚をし、そしてまた結婚して子供が生まれ、親を向こうの世界に送るようなことをしているうちに、毎日毎日を生きることが大変になった。そして家族や仲間と少しでも楽しい時間を過ごすことができるようにと考えているうちに、そんなことはどうでもよくなっていった。
ま、辛いことや苦しいことが多いのが人生である。
せめてテンカラくらい気楽にやりたいものである。
みんなちがって、みんないいのだ。
吉田毛鉤 吉田毛鉤会代表 テンカラインストラクター 吉田孝
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